Partager

第05話 戦火の足音

Auteur: あおはな
last update Date de publication: 2026-02-02 11:00:46

 ――魔王が復活した。

 その報せは、王都よりも早く、風よりも鋭く届いた。

 血の匂いを含んだ、不吉な風とともに。

「ヴェルゼンが……陥落? 一夜で?」

「王宮は炎に包まれ、王室の安否は不明。国境守備隊も壊滅……との報です」

 戦略会議の間には、重苦しい沈黙が支配していた。

 地図の上に並べられた三つの国――ヴェルゼン、クランド、アスロニア。

 僅か十日で、すべて魔王軍の手に落ちた。

 まるで紙の城を倒すように、あまりに呆気なく、容赦なく。

「……聖騎士団は何をしている!?」

 国王ローランドの怒号が、石壁に反響する。

 しかし、軍務卿の声は震えていた。

「第八師団は壊滅、第四師団も後退を……もはや戦線は崩壊寸前です」

「冗談ではない……王都が陥落?あと……一ヶ月だと?」

「最悪、それ以下の可能性もあります。殿下、決断を――」

 空気が凍った。

 全員の喉が詰まる。誰もが、絶望の名前を避けようとしていた。

 ──その時、 老騎士の一人が呟いた。

「……ノワール・ヴァレリアンが、今ここにいたら……」

 嘗て、その名を口にした者たちがいただろうか?

 すると、懺悔のような声に、若い副官が鼻を鳴らした。

「『無能』と嘲られたあの平民か? 今さら何を……」

 しかし、別の男が、震える声で口を挟んだ。

「……知らないのか? 『神殺しの勇者』の話を」

「な、何の話だ?」

「魔王の奥に現れた『神性』を、たった一人で……斬った。あれは……ノワールだ」

 その名が落ちた瞬間、会議の空気が一変する。

 まるで、空間そのものが静止したようだった。

「噂かと思っていた。だが、各地で同じ記述がある。あの剣技、あの黒衣の男……」

「まさか……我らが追い出した、あの少年が……!」

 老騎士は震える手で地図を握り締め、額を伏せた。

 そして――

「ノワール・ヴァレリアン。あの者の行方を至急探させよ」

 王の言葉には、深い後悔と、唯一の希望が宿っていた。

   ▽

 その頃――南西の辺境、エヴァレット領。

 平穏だったはずの緑の谷に、ゆっくりと──しかし確実に、戦の気配が迫っていた。

「ソ、ソレンが……落ちたって!?」

「あっちの空、ほら……煙が……!」

 焦げた風が吹き込み、乾いた土のにおいとともに、民の不安が色濃く立ち上る。

「母様、こわいよ……」

「水が……もう水がないの……っ」

 逃げてきた民たちは、ぼろぼろの荷を抱えてエヴァレット家の城館へ殺到した。

 疲弊した顔、すすで汚れた衣。

 小さな子どもたちは泣き叫び、大人たちは無言で唇を噛みしめていた。

 その混乱の中心に立ち続けていたのは、カローラ・エヴァレットだった。

「子どもたちは教会へ!年配者と負傷者は、南棟の医師のところに!水の配給は列を! 混乱を避けるために!」

 高く通る声――それだけが、この場をどうにか保つ最後の糸だった。

「はい、カローラ様!」

「すぐに動きます!」

 使用人たちが慌ただしく走る。

 その中で、カローラもまた、裾の汚れたドレスを気にも留めず、泥に足を取られながら指示を飛ばし続けた。

 白い手袋は薄く破れ、手の甲には傷ができていた。

 それでも──彼女は止まらない。

 誰かがしなければならなかった。

 誰かが、希望の顔を保たなければ。

 けれど──

「ああ……私のこの笑顔、あとどれだけ持つのかしら」

 ふと足を止め、城館の中庭で空を仰いだ。

 青くあるべき空が、どこか遠くで赤黒く染まっており、山の向こうから吹いてくる風は、かすかに血と煙のにおいを含んでいた。

 その日の夕刻。

 カローラは、城館奥の謁見室へと足を運ぶ。

 カローラの父──エヴァレット侯爵が、無言で書類に目を通しており、部屋に入った娘を見てもその視線は一度も動かなかった。

「父様」

 絨毯の上に立ったカローラは、まっすぐに告げた。

「領民はすでに三分の二が避難を終えました。ですが、門を閉じれば──その残りの人々は……っ」

 静かに、だが確かな声で訴える。

「お願いです。南門の開放を」

「却下する」

 書類から目を上げず、侯爵は短く告げた。

 その言葉には、情も、迷いも、なかった。

「中央からの命があるまでは動かぬ。勝手な判断は、王家への背信と取られる……貴族としての責務は、冷静な秩序の維持にこそある」

「……それは、本当に『責任』なのですか?」

 思わず口をついて出た言葉。

 カローラ自身が驚いた。

 目の前で、父の手がぴたりと止まる。

「その言葉、今一度……自分の立場を思い返してから口にするがいい」

 その声には、静かな怒りが滲んでいた。

 けれど、カローラはもう下を向かなかった。

 父の冷たい視線をまっすぐに受け止め、そっと言葉を返した。

「命を見捨ててまで守る『立場』なら……私は、もう、要りません」

 一瞬――侯爵の目が、何かを見透かされたように揺れた。

 だがその動きはすぐにかき消され、扉の向こうへと、彼女は背を向けた。

 父との話が終わった後、館の最上階、私室の窓辺に、カローラはひとり佇んでいた。

 開け放たれた窓から、夜風が静かにカーテンを揺らす。

 遠くの空が、赤く染まっており、燃える街の火の粉か、あるいは──血煙か。

「――ノワール」

 その名を呼ぶと、喉が震えた。

 胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。

 「ねえ……あなた、今、どこにいるの……?」

 そっと抱えた両腕に、微かな震えが伝わる。

 彼を切り離したあの日、自分が選んだ『正しさ』は、今の世界ではただの『虚しさ』になっていた。

 ――あの日から、もう十年の月日が流れてしまった。

 未だに、カローラはノワールの事を忘れていない。

 おかげで既に彼女は貴族の世界では『行き遅れ』だ。

 父が婚約者候補の名を口にしたのだが、カローラはそれこそ首を縦に振る事はなかった。

(……だって、あの日、私はノワールを突き放した。これは、私の罪だから)

 後継者がいなくなるかもしれない。

 しかし、別に父と子だけではない。

 可能だったら、親戚の子を養子にしてこの地を継げばいいと思っている。

 それほど、彼女はノワールの事を忘れる事が出来ないのだ。

 「会いたい……もう一度、あなたに……会わせて……」

 絞り出した声は、まるで夜空への祈りのように、静かに風に溶けていく。

 しかし、返事はない。

 けれど、心のどこかで──確かに、何かが動いた気がした。

 そしてその瞬間。

 遠く北の空に、ひとつの『黒い影』が、静かに現れ始めていた。

    ▽

 王都では今、民たちがひそやかに語り合っていた。

「『黒衣の剣士』が、また東の山で魔族を斬ったらしい」

「ひと振りで、十体の魔物を斬ったって……本当かね?」

「……神殺しの勇者。あの名が……本当なら……」

 伝説は、静かに広がっていく。

 それはまだ、希望というには頼りない。

 けれど、崩れゆく世界の中で──『その名』だけが、人々の心を繋ぎとめていた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   最終話 世界の終わりと、はじまりの中で

     雪解けの春が訪れてから、三年目の冬がこの村を包もうとしていた。 辺境の地、フィオレ――森と湖に抱かれたこの場所は、王国の地図からも抜け落ち、誰にも顧みられない静謐な空間として、ただそこに在った。 かつて神を斬り、王国を揺るがした男の姿など、ここにはない。 あるのは、薪を割り、子を抱き、スープを温めるただの父親の姿。 その名も、ノワール。 朝、カローラは戸口を開けて、小さく息をつく。 白い息が空に溶けていき、降り積もる雪はまだ浅く、木々の間から差し込む朝の光が、世界を仄かに照らしていた。「……寒いわね、今日も」 振り返ると、小さな足音が近づいてくる。 「ママ、ママっ、雪! ほら、ゆきだよ!」 まだ幼い女の子が、嬉しそうに外を指差している。 ふわふわの髪はカローラに似て柔らかく、目元と口元には、どこかノワールの面影が宿っていた。「ええ、見えてるわ……冷たくなるから、お外はパパが帰ってからにしましょうね」「うん……でも、あのね、ゆきのにおいって、ちょっとおいしそう」「ふふ、それは雪じゃなくて、パンの焼ける匂いじゃないかしら?」 母と娘の笑い声が、小さな家の中に柔らかく響いた。 ノワールは、その声を背に受けながら薪小屋から戻ってきた。 戸を開けると、少女が真っ先に駆け寄ってくる。「パパ、おかえり!」「ん。……ただいま」 無骨な男の口から返るその一言は、誰よりも誠実で、温かかった。 ノワールは娘の頭をそっと撫で、雪の付いた肩を軽く払い落とす。 その手はかつて神を屠った剣の手でありながら、今はただ、小さな命を優しく包むためだけに存在していた。 カローラは微笑みながら、薪を受け取る。 ノワールと交わす視線の中には、言葉を超えた絆があった。 「朝ごはん、できてるわ……スープ、少し冷めちゃったかも

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第24話 罪と共に生きる

     カローラは、ふと鏡に映る自分の顔を見つめることがある。 薪の炎が揺れる小さな家の壁にかけられた、小さな銀縁の鏡。 その中に映るのは、どこか静かに落ち着いた、見慣れないほど柔らかい表情をした自分。 若くして貴族令嬢と呼ばれ、刺繍のドレスと決まりきった笑顔を着ていたあの頃――政略、名誉、婚約。 そうした言葉の中で、自分という存在を押しつぶして生きてきた少女は、今ここにはもういない。 火の灯るこの静かな家で、誰の目にも晒されず、ただひとりの隣で生きている。 それは、名誉でも義務でもなく、自ら選んだ日常。 彼の隣に在ること、それだけが、今の彼女の人生だった。 ノワール。 嘗て『黒衣の勇者』と呼ばれた男。 今では、村の誰もがただの一人の男、『ノワール』としか知らない存在。 彼は薪を割り、土を耕し、雨の日には無言で窓の外を眺めている。 あまりに静かで、あまりに平凡で――それでいて、彼女だけが知っているのだ。 平穏の奥に、どれほどの『絶望』と『異常』が潜んでいるかを。 この男の手は、かつて神を斬った。 王に膝をつかせ、信仰を捻じ曲げ、人の倫理と秩序を粉砕したその手が、今は温かいスープの鍋をかき回している。 だが、力は失われていない。 いや、むしろ――今もなお、世界を終わらせるだけの力を抱えている。 その全てを、たった一つの『願い』のために。 自分という存在のためだけに。 ──狂気にも似た、純粋な執着。 ある晩、火が赤々と燃える暖炉の前で、カローラは膝を抱えながら、ぽつりとつぶやいた。「……私を選んだんじゃないのよね」 ノワールは、振り返らなかった。 火の中に目を落としたまま、ただ静かに聞いていた。「あなたが選んだのは、『罪』だった……そうでしょ?」 ノワールの瞳が、ふとカローラへと向けられる。 その黒い目は、昔から変わらない。沈黙の中に、すべてを語る目だった。

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第23話 一輪の花と、十年越しの贈り物

     その日が近づくと、カローラは朝から落ち着かない心地になる。 辺境の村にも春の兆しが差し始め、窓の外では木々が薄緑の芽を覗かせていた。 鳥たちがさえずり、土の匂いが柔らかく空気に混じる。 冬のあいだ閉ざされていた世界が、再び目を覚ますように、生の気配で満ちていく。 けれど、彼女の心に芽吹くのは、自然の変化ではなかった。 ──十年前。 すべてが光に包まれていた、あの眩しい初夏の一日。 小さな庭で、まだ幼い彼に向かって、彼女は無邪気に言ったのだ。『「守ってね』と。 何の打算も知らない、ただまっすぐな子供の願いとして。 侯爵家の庭園に咲いていた白い花。 彼女はそれを摘み、自分の髪にそっと挿して笑った。  あの時に交わした拙い約束は、今も彼女の胸に、色褪せることなく残っている。 春の訪れと共に、今年もその記憶が彼女の心をやさしく波立たせていた。 辺境のこの村にも、確かに春は訪れる。 夜の霜がゆるみ、凍てついた地面から草が芽吹き、空気にわずかな温もりが宿る。 そして──その季節になると、村の道の向こうから、毎年同じものが届く。 小さな包み――粗末な紙に包まれた手のひらほどのそれは、遠く長い旅をしてきたかのように、うっすらと埃をかぶっていた。 中には、一輪の白い花。 花弁は瑞々しく、まるで今しがた摘まれたかのような新鮮さで、指先に触れれば、朝露の余韻さえ残しているかのようだった。 柔らかな香りが、胸の奥を切なく揺さぶった。 手紙も、差出人の名もない。 言葉ひとつ添えられていない。 けれど、それが誰から届いたのか――カローラには、痛いほどわかっていた。 たった一輪の白い花。 それは、十年を越えても変わらぬ『誓い』の印。 彼が、毎年この日を忘れることなく、どれだけ遠く離れていても、どれほど言葉を交わさずとも、カローラを想い続けてきた証だった。 花びら一枚一枚に、彼の無言の想いが染み込んでいる気がした。 この世界のどこかで、自分が生きていることを、彼は確かに覚えていてくれている。 それだけで、心が熱を帯びた。 カローラはその白い花を、静かに、丁寧に押し花にする。 潰れぬように、壊さぬように、そっと、慈しむように紙に挟む。 そして、古い日記帳の一ページに、今年の記録を書く。 『また届いた』と書きながら、彼女は一年分の小

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第22話 神なき国、王の独白

     王都、ヴァル=エルレア。 かつては信仰と栄光が交差し、神殿の鐘が朝と共に鳴り響いていた都市。 だが今、その鐘は沈黙していた。 白壁の神殿は封印され、門前に立つ者はなくなった。 かつて人々が頭を垂れた英雄の石像は撤去され、その破片が広場の隅に積み上げられている。「……何もかも、終わったように見えるな」 ローランド王は窓の外を眺めながら、誰にともなく呟いた。 その背中は、王国を支えてきた威厳を失い、ただ老いたひとりの男のそれに変わっていた。 重苦しい静けさの中、若い侍従が声を低くして問う。「……陛下、記念碑の撤去について、正式な告知を民へ?」「必要ない。民はすでに……すべてを知っている」 その声には疲れが滲んでいた。 いや、疲労ではない。 もっと深い場所で、何かが決定的に崩れてしまった者の声だった。「神を斬った男……ノワールという異端の『勇者』を称えようとしたのは、我々自身だ」 王は机の上の羊皮紙に視線を落とした。 それは、かつて彼がノワールに与えた――『望むものを授ける』と書かれた褒賞の誓約書。その下には、今も王自らの署名が残っていた。「……だというのに、彼が望んだものは、栄光でも、土地でも、地位でもなかった。ただ一人の『女性』だけだったのだ」 室内に微かな緊張が走る。 誰も名を口にしなかった。その名前を出すことが、何か大切なものを壊してしまいそうで。「我々は……彼を何一つ理解していなかったのだよ」 王は唇を噛み、ゆっくりと言葉を継いだ。「力だけを見て、利用価値ばかりを量ろうとした……だが、あの男は確かに『人間』だった」 手のひらをそっと空へ向けるように、彼は天を仰いだ。「神を斬ったその手で、たった一人の女を選んだ。民でも、国家でも、神でもない……彼のすべてを投げ出しても惜しくないと信じた存在を……だが、それが……我々には理解できなかった。否、理解しようとすら、しなかったのだ」 重苦しい沈黙が落ちる。 やがて王は深く息を吐き、椅子に腰を下ろした。そしてぽつりと呟いた。「……だがな、不思議なものだ」「彼が『あの娘』を選んだことだけは、なぜか……私の胸に、小さな安堵をもたらしている」 侍従が戸惑いを隠せず、小さく眉をひそめた。「安堵……に、ございますか?」「ああ」 王はわずかに微笑んだ。その笑みには、ほの

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第21話 報せの届かぬ地にて

     王都から北東へ、馬で十日。 広大な森林ときらめく湖に囲まれた辺境の村──フィオレ。 地図にもほとんど記されることのないその地は、旅人の間でも語られることのない、まるで世界から忘れ去られたような村だった。 その静寂の中に、ノワールとカローラの姿があった。 まるで、世界の喧騒から自らを切り離したかのように、ひっそりと。 この地の朝は霧とともに始まり、夜は風とともに閉じる。 夜明けに現れる乳白色の霧は、すべてを柔らかく包み込み、まるで過去の影すら覆い隠すようだった。 ここには戦も魔獣も届かず、貴族の命令も、王の意志も届かない。 そんな場所で、彼らは人目を避けながら、しかし寄り添うように、静かな日々を送っていた。 ノワールは仮面を外し、黒衣を脱ぎ、勇者という象徴を捨てた。 古びたチュニックに袖を通し、木を割り、水を汲み、畑を耕す。 その鍛え上げられた身体は、土の感触にも驚くほど馴染んでいた。 外から見れば、ただの寡黙な青年。 勤勉で、村人からの信頼も厚い『ひとりの男』だ。 だが――カローラだけは知っていた。 彼の中に今なお残る、世界を斬り裂いた力の残滓を。 触れるものすべてを焼き尽くすほどの、神すら殺せる男の余韻が、彼の沈黙の奥に息づいていることを。 ある日、村の子供が木から落ちて怪我をした。 幼い悲鳴に、村人たちが駆け寄る。 ノワールは黙って傷に手をかざしただけで、血は止まり、腫れも引いていった。 少年はすぐに立ち上がり、笑顔を取り戻した。「すごい、おじさん!魔法使いみたいだよ!もう痛くない!」 少年の無邪気な声に、ノワールは少しだけ笑った。 それは、かつてカローラだけに見せた、不器用で、しかし心からの微笑みだった。 だがその光景を、カローラは木陰からそっと見つめていた。 彼の優しさを見るたび、胸の奥が締め付けられる。 まるで、それがあまりに眩しくて、手が届かないもののように思えて。 彼は、これからも『人間のふり』をして生きて

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第20話 この手を、二度と離さない

     ――これは、たったひとつの祈りの終わり。 そして、新たな世界の始まりだった。 静まり返った夜、月は雲ひとつない空に高く昇り、白銀の光を惜しげもなく地上へ降り注いでいた。 その光が、屋敷の奥にある古い庭園に、まるで静かな祝福のように広がっている。 ノワールとカローラは、そこで向かい合っていた。 月明かりの中に、ふたりの影が静かに寄り添っている。 そこは、かつてふたりが『出会った』場所だった。 幼いころの記憶が微かに残る、あの草むらの中。 貴族と孤児という身分の隔たりすら忘れ、ただ一人の『人』として、初めて言葉を交わした庭。 十年の歳月を超えて、ふたりは再びその同じ場所に立っている。 月光に照らされて、木々の葉がさやさやと揺れる音が、沈黙をそっと慰めている。 ノワールが、静かに口を開いた。「……お前が笑ってくれるなら、俺は、それだけで生きていける」 その声には、かすかな震えが混じっている。 世界を焼き、神を斬った男とは思えないほどに、脆く、繊細な響きだった。「世界なんかなくても、名誉が消えても、この身が朽ちても構わない。誰に否定されても、嘲られても……お前の笑顔だけが、俺の世界だった。それだけで、俺は何度でも、生まれ変われる」 彼の手が、ゆっくりと持ち上げられる。 その指先が、月の光を受けて青白く輝いていた。 剣すら要らない今、彼はただ――震える手を、カローラへと差し出す。 『力』ではなく、『心』で触れようとするように。 その手は、かつて数多の命を奪い、数え切れない咎を背負った手。 だが今は、ただひとりの少女の『選択』にすがるような、弱さを隠さない手だった。「……でも、お前が俺を拒むなら――」 ノワールの声はさらに小さく、風に溶けるようにかすれた。「そのときは……俺はこのまま消える。世界からも、お前の記憶からも、痕跡ごと消

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第06話 黒衣の勇者、再臨

     重厚な扉が鈍く軋み、音を立てて閉じた。 その響きはまるで、外界から希望を遮断する音――まるで、王国を見捨ているかのような、そのような音に聞こえた。 王宮の戦略会議室。 金と瑠璃で飾られた豪奢な空間に、不釣り合いな沈黙が満ちており、煌びやかな装飾は、今や王国の惨状を痛々しく照らし出す。 国王ローランドは椅子に身を沈め、目を閉じる。 手元の書類の束には、各地からの戦況報告とともに――ある『名前』の調査記録が挟まれている。 そして、彼は低く、かすれるような声で口を開いた。「…&helli

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第04話 去った彼の、その後

     ノワール・ヴァレリアンが王都から姿を消してから、数日が経過した──いや、時の流れが鈍くなったように思えた。 王立騎士団の寮。 かつて彼が暮らしていた簡素な一室には、もはや何ひとつ残されていなかった。 剥き出しの床板。空っぽの棚。埃をかぶった窓枠。 どこを見ても、そこに誰かが住んでいた、気配は微塵もない。「ここ……誰か使ってたっけ?」 新入りの団員が、扉の前で不思議そうに首を傾げる。 返ってきたのは、嘲るような声だった。「ああ、魔力ゼロの『勇者様』の部屋

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第03話 最後の夜と沈黙の別れ

     雨が降っていた。 しとしとと、濡れた音すら立てぬほど細く、静かな雨であり、空は鉛色に曇り、どこまでも低く、重く垂れ込めていた。 風はない。 ただ、まるで世界そのものが呼吸を止めてしまったかのような静けさ。 淡く霞む王都の空気は、濡れた石畳に淡く煙をまとわせ、景色すらも輪郭を失い始めていた。 その朝、王立騎士団の名簿から、ひとつの名前が静かに消えた。 ──ノワール・ヴァレリアン。 『魔力ゼロ』の勇者候補――平民出身の落ちこぼれ。 誰からも惜しまれず、誰の耳にも届くことなく、彼の名は

  • 貴族令嬢は【魔力ゼロ】の少年との婚約を破棄した。十年後、彼は神をも斬る最強の勇者となり、傲慢な世界に膝をつかせ、ただ私を   第02話 騎士団での冷遇と誹謗

     夜がまだ完全には明けきらぬ頃。空は墨を溶かしたような灰色で、凍てつく空気が肌を裂くように吹き込む。 その空気の中、ひとりの少年が黙々と木剣を振っていた。 ノワール・ヴァレリアン、十六歳。 平民出身の勇者候補──ただし、『魔力ゼロ』と烙印を押された落ちこぼれ。 剣を振るその手は、かすかに震えている。 疲れや寒さではない。 皮膚の切れた指から滲む血が、柄に染み込み、冷えた空気とともに痛みを残している。 しかし、彼は気にしなかった――気にしていられなかった。「おい、雑用。昨日の剣の手入れ、終わってねぇぞ。雑かよ、ったく」「水汲みも遅いんだよ。貴族様を待たせるとか、勇者候補のくせ

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status